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2010年6月

2010年6月19日 (土)

カード入れ

ロンドンにあるVictoria & Albert Museumに展示されていたイギリスの刺しゅうサンプラー(?)を真似して作ってみました。

この刺しゅうとは、奇遇にも十数年ぶりに再会しました(写真と、ですが)。
せっかく写真を頂戴したので、それを見ながら刺してみることにしました。
こういうとき、本物と同じように作るか、デザインだけ同じにしてヘデボーのように作るか、迷います。
複製を作る必要もないので、今回は馴染んだヘデボーの刺し方にしました。

Card_holder_outside(外側) Card_holder_inside (内側)

何の意匠なのか、よくわかりません。
ずっと「虫(テントウムシ? カナブン?)」だと思っていたのですが、このたび「それは違うでしょう」ということになり、おそらく「植物の意匠」ということに落着しました。
本物は、横に細長く、もっときれいに模様が配置されています。
今回は、この大きさに押し込めるために少し配置を変えました。
これをデザインした人はきっと、後世にこんな風に切り取られ、ちぢこめられた作品になるとは思っていなかったでしょう。もしかしたら、「それでは模様が意味をなさなくなる」と苦言がくるかもしれません。


あまりきれいにできなかったし、どうしたわけか似なかったようですが、ところどころ浮き上がっていたり、作っていて とても楽しかったです。

文字の刺しゅうは、いかにも「苦労して
ます」という感じがにじみ出てしまって苦手なので、イニシャルはいつもできるだけ避ける(よく見えないようなものにするか、クロスステッチなどにする)のですが、逃げてばかりではいけないような気がして、刺してみました。
マーリットMarlitt糸を使いましたが、やり直しを繰り返すうちにボサボサになってしまいました。失敗です。また当分、文字の刺しゅうから遠ざかることと思います。

この博物館をいつか再訪する機会があったなら、そのときはネットをいっぱい用意して、展示品を見ながらその傍らで飽きるほどに刺しゅうしてみたいです。

2010年6月13日 (日)

テーブルクロス

アマーの白い刺しゅうAmager syningを真似たテーブルセンターを作りました。
都合により布を斜めに裁つこととなり、そのためか歪みを生じて、またまた波打ったものができあがってしまいました。
周囲を額縁のように太く厚くしたので、テーブル掛けとしては変な仕上がりでもあります。
当初予定していた机にはちょっと合わないようなので、壁掛けということにしてしまおうかな、とも...。

約60×60cmの正方形のクロスの中央に、正方形(約20cm四方)に刺しゅうしています。

Rimg0127
今回は(私としては)シンプルなできあがりで、どうしても何か物足りない感じが拭えません。
周囲の広い余白に簡単な刺しゅうを足してみたりしましたが、いくら試してもどうもしっくりこないので、諦めました。

本を見ると、実際のアマーの刺しゅうは、もっと厚みがあって、隙間なく詰め込まれている印象を受けます。布が違うので、これは仕方ないことかもしれませんが。
それに、アマー刺しゅうによく見られるような動植物の図案を混ぜなかったので、アマーの良さが出なかったように感じます。
こういう単純な模様ならば、あまり考えないでいいのかなと思ったのですが、私ではつまらないものしかできなくて、幾何学模様の難しさもよくわかりました。
クッションの図案のほうがずっとよいように思うので、次は、やっぱり古い作品の純粋な複製を作りたいと思います。

アマーの古い作品に、ベッドカバーと枕カバーのセットが残っていて、それぞれに刺し込まれた制作年から、3年以上をかけて作られたことのわかるものがあるそうです。
私は、こういう話を知ると、作品がとても愛おしく感じられます。これを作った遠い見知らぬ人に対して愛着や親近感が湧いてくるからでしょう。
この刺しゅうは確かに時間のかかるものですが、専念すれば それほど長くかかるものでもないので、何年もかかったのは、アマーの人が日常の生活の中で暇な時だけ刺しゅうをしていたからだろうと思います。
アマーでは、機織り仕事のない日曜日などに刺しゅうをしていたそうです。自慢の刺しゅう道具一式を抱えて皆で集まり、刺しゅうをしていたのかもしれません。
それは家族のためであり自分のためであり、実用であり楽しみであり、目の前の地道な作業の向こうに完成の日を期待を込めて夢見たり、途中思い通りにならなくて悲しんだり、できあがった喜びや達成感に次へと駆り立てられていく、そんな今の自分と変わらない姿を勝手に思い浮かべています。
250年も昔の遠い国のことですが、手芸をする人・好きな人はあまり変わらないように思うのです。
3年以上かかったという寝具カバーは、仕上がるまでにこの家族に様々な変化が起こったこ
とと思います。ごく普通に暮らしていても、3年もの間、笑うことも泣くこともしない人は多分いないでしょう。嬉しいとき、悲しいとき、不安なとき、希望に満ちたとき、いろいろな思いがあったでしょう。そんな心の動きに押されて針を放りだすときもあれば、すべてを抱え込んで黙々と針を動かすときもあったでしょう。
作品は、それが長期間の単調な手仕事の結果であることと、作った人の上手下手しか語りませんが、そこに費やされた時間をおもうとき、作り手の膨大な思いがまとわり、詰め込まれていることを自分に重ねて想像します。

刺しゅうをしている時、私はゴースダルに心の中で寄り添います。学校でのこと、bakkehusでの生活、傍にいたその時を思い出し、次に会う日を思います。
以前に作ったものを見返す時、その時にあったこと、考えていたこと、近くにいた人、話していたこと、作品と共にそこに流れていた自分の時間を思います。
他人には伝えようもない、つまらない様々なことがその時間に存在していて、作品という形になって私にだけ見えるのです。
手仕事の本当の価値というものは、こういった、それを作った人と、せいぜいその周囲のごく親しい人にしか計り得ないものなのだろうと私は思います。

2010年6月 3日 (木)

アマーの白い刺しゅう Amager Syning

ゆっくりですが小さなテーブルクロスを作っています。
以前に、18世紀末に作られた枕の複製を作ったら好評でしたので、特にゴースダルの気に入ったらしい部分と同じ種類の刺しゅうで正方形のものを作っています。
が、浅はかにデザインを変えたら、失敗したようで、気持ちが落ちこみます。

これも白い刺しゅうですが、「ヘデボー刺しゅう」と呼ぶべきか「アマー(Amager)刺しゅう」と呼ぶべきか、未だわからないものです。
「アマー」もまたデンマークの地名で、コペンハーゲン空港(Kastrup空港)などの周辺地域の名前です。コペンハーゲンは「ヘデボー」にあります。
一般に、「アマー刺しゅう」は色糸を使った刺しゅうのことをいいます。かつてのアマーの人々は、時には美しい色合いで織られたショールの地模様の上に、更に色鮮やかな花をフランス刺しゅうのように刺すなど、多彩な色遣いを好むことで知られます。それに関係するのかどうかわかりませんが、学校ではDMCの25番の刺しゅう糸を「アマー糸」と呼んでいました。
色糸刺しゅうの大好きなアマーの人たちでしたが、白い刺しゅうもたくさん作っていて、それはヘデボー刺しゅうとよく似ていました。
ヘデボーとアマーの白い刺しゅうは、一見同じようですが、作り方に違いがあり、似た中にも大きく異なる特徴点も持っています。
私の勝手な感想ですが、アマーのほうがよりイタリアなどの古典的な刺しゅうに近いような気がします。
アマーの白い刺しゅうは、ヘデボーと同じく18世紀頃から作られ始めますが、ヘデボーが大きく進展する19世紀には衰退してしまったそうなので、ヘデボーのように変化する間もなかったのかもしれません。
アマーの独特な文化のためか、早く消えてしまったためか、刺しゅうの使い方にもアマーとヘデボーでは違いがあるようです。

今は「ヘデボー刺しゅう」の中にアマーの白い刺しゅうも含めるのが普通みたいで、教わった時にはヘデボーとアマーを区別していなかったので、私もすべてヘデボーと呼んでいます。
一方で、初めてヘデボー・バルデュアリングを作ったときに参考にしたものが、その本では「アマー刺しゅう」となっていたので、ずっと気にはなっていました。
私は図案をアマーから借りても、ヘデボーの刺し方にならって作りますが、こうした時に「ヘデボー刺しゅうといって本当にいいのかな」と、ちょっと迷いを生じてしまいます。かといって、それはもうアマー刺しゅうでもないのですが。
本によっては、アマーの色糸刺しゅうを「Amager broderi」、白糸刺しゅうを「Amager syning」と言い分けて、アマーの白い刺しゅうをヘデボー刺しゅうと明確に区別して記述しています。
別の刺しゅうとしてとらえて
いる本が多いのですが、私の知るデンマーク人はあまり名前にこだわりがないようで、大雑把にすべて「ヘデボー」といっているようでした。

下の写真は穴埋めによく使われる模様です。私の一番好きな柄で、今は必ずといっていいほど使います。
左がヘデボーとして教わったものです。中央に三角形を2つ並べます。私は勝手に「猫の耳」と呼んでいます。
右がアマーを真似したもので、reticellaの影響を受けた刺しゅう全般によくみられるものと似ている(?)と思います。中心の扇形をヘデボーと同じように小さなボタンホールステッチを重ねて作ることもあります。こちらは「熊の耳」と名付けました。

201006011  201006012_2  
ネコ耳さんもクマ耳さんも、いずれも4つ並べあわせると、丸く、花のようになります。アマーでは「車輪」と呼んだりするようです。
必ずしもヘデボーは左、アマーは右と区別されるものではないと思いますが、その作られた時代を映し出しているようには思います。

アマーの白い刺しゅうと呼ばれるもので、ヘデボーのような花や葉をあしらった曲線の刺しゅうを見たことがありません。
アマーは、とても直線的で、隙間なくトコトン刺し尽くしたものばかりです。「無駄を削り落とす」「シンプル」「洗練」といった言葉から遠く離れ、今の時代には優雅ともいえないものでしょう。
でも、私はアマーの刺しゅうに強く魅かれます
。「トコトン刺す」のが性に合っているのかもしれません。
今回、ほんのちょっとしたことでも、失敗につながってしまう--というか、本来のものから遠ざかってしまうことがよくわかりました。
以前作った時にも、なかなか似たものにならなくて、ずっと心に残っている点もあります。
まだまだ複製を作ることもおぼつかないですが、アマーには作りたいものがいっぱいです。

刺しゅうのみならず、こういったレースの美しさに何か法則があるのか、どうして自分がそれを美しいと感じるのか、私はずっと疑問に思ってきました。
たとえば対称的・幾何学的な整ったデザインであればよいというものではなく、精密に作ればいいというものでもなく、近づいて見れば見る程きれいなのかどうかさえわからなくなるようなものなのに、その全体像は息をのむほどの美しさを放つレースというものが私にはずっと謎のままです。
どこかに均衡をとる計算が存在するのかなと想像しますが、わかりません。
誰かに教えてもらえることかもしれませんが、自分で描いて作って試してみても、自力では答えがわかりません。
人間の感性というものを理解した人でなければ、よい図案は描けないものなのかもしれません。
そして、だから謎の解けない私が自作で失敗するのは当然なのかも、と思います。

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